糧となれ (もうひとつの雪輪茶碗)
「セイ! 帰りましたよ!」
昼を回ろうかという頃に玄関から聞こえた声の主は、セイが迎えに出るのを
待つ気もないらしく足音を立てて居間へと向かってくる。
「夜番明けだっていうのに土方さんってば人使いが荒くて、今まで隊士の稽古を
つけてたんですよ〜。疲れた夫を労わってください・・・って、あれ?」
さらりと障子を開けて踏み込んだ室では、予想通りにセイが祐太に
昼餉の粥を与えている。
けれどもう一人、予想外の人物が居た事で総司が言葉を止めた。
「よぉ、邪魔してるぜ」
軽く片手を上げた町人姿の男の前に溜息を吐きながら腰を下ろす。
「また来てたんですか、浮之助さん・・・」
「おや、失礼な事を言うねぇ。俺が来ちゃいけないってのかい?」
「そうじゃなくて、こんなに頻繁に来てたら間男と思われますよ?」
いつも私の留守を狙うように来るんですから・・・。
ブツブツと口の中で文句を連ねる総司の言葉も最もだろう。
この界隈ではセイは美人で名高く、浮之助も役者にしたところで
何の問題も無いほどの美形である。
しかも双方共に武家特有の品格を持っていて、へらりとした黒ヒラメが
相手であるよりも余程お似合いの一対にも見えるのだから。
セイにしても浮之助にしても相手に艶めいた感情など一分も持っていない事は
重々承知していようとも、夫として面白くないのは当然といえた。
「間男ねぇ・・・。仕方が無いじゃないの。アンタが居るのはほとんど夜だし、
さすがにそんな刻限に出歩いてたら色々うるさいんだからさ」
ふらふらしているように見えてもこの男は一橋家の当主なのだから、
当然周囲の者も口うるさくなる。
確かにそうそう危険な夜間に出歩く事は許されないだろう。
「それにしては相変わらずだと伺ってますけどね。先日も大坂の妓楼で
大立ち回りをやらかしたとか・・・」
「またですか?」
それまで黙って祐太の口に匙を運んでいたセイが言葉を挟んだ。
乳離れの時期になったという事で、最近の祐太には刻んだ野菜を米と煮込んだ
粥を与えるようになっている。
乳児というものは往々にして食べる事に飽きがちで、母親は一度の食事を
取らせるのに苦労するという話を聞くけれど、この子供は父に似たのか
一度食事が始まると余所を見向きもせず、ひたすら口を開け続ける。
時折母を見上げてはにっこり笑いながらパカリと口を開ける様子は
凶悪な程に可愛いと総司が言って回るのも、あながち親の贔屓目では無いと
祐太の様子を見ながら浮之助も思う。
「俺のせいじゃないよ。馴染みの妓に袖にされて頭に血を上らせた
どっかの野暮天侍が、刀を振り回して飛び込んできやがったんだよ。
全く粋に遊ぶ術も知らねぇてめぇの野暮さに愛想をつかされたって
何でわからないのかねぇ」
呆れたような口調ではあるが、それなりに付き合いのある総司達には
その声に紛れた面白がる色が見えている。
「で、ここぞとばかりにぶちのめして仕事の憂さ晴らしをしたって訳ですか・・・」
禁裏御守衛総督という肩書きを持つこの男は、日々底意地の悪い公家連中や
頭の悪い、いや、頭の固い幕閣の相手をしている。
どちらにしろ厄介な相手であり、確かに我慢と忍耐を多大に強いられる事だろう。
だからこそ時折大坂に出向いては盛大に鬱憤を発散させている事は
総司達にしても知っている。
「憂さ晴らしってのはひどい言いようだねぇ。喧嘩を売ってきたのはあっちだぜ。
か弱い妓達の前でだんびら振り回して散々恐ろしい思いをさせたんだ。
それ相応の落とし前をつけさせないでどうするってんだい?」
「落とし前って・・・」
総司が額に手を当てた。
地回りのヤクザ者でもあるまいし、この男が口にする言葉ではないだろうに。
それを如実に語る総司の表情をみとめた浮之助がニヤリと笑った。
「死なない程度にしといてやったんだ。武士の情けってもんだろう?」
大坂に配置されている監察から一連の事情は報告が入っていた。
見目麗しい町人の優男だと甘く見て、妓を取り戻すために脅しをかけようとした
田舎侍が逆に叩きのめされて妓楼から放り出されたと。
命に関わるほどではないが、骨の二.三本は折れていたかもしれないとの事だった。
「・・・無用な恨みは買わない事ですよ? 大事な身なんですから」
セイがぽつりと呟いた。
公武合体が一応の成功を収めているとはいえ、どこに落とし穴があるかなど
わかりはしないのだ。
まして遊郭など無防備も良い所だとこの男が知らないはずがないだろう。
ぞろぞろと護衛を付けて行く男ではないし、複数で部屋に斬り込まれようものなら
例えこの男でも切り抜けるのは難しいはず。
一橋慶喜が惨殺されたなどとなったら、世にどれほどの乱れが生じる事か。
勿論それ以上に、風変わりなこの知人が不幸な形で命を落とす事など無いように
と願う思いも強いけれど。
セイの言葉に一瞬だけ穏やかな笑みを頬に乗せた浮之助だったが、
次の瞬間には悪戯めいた光を瞳に煌かせた。
「嬉しいねぇ。清三郎は俺の事をそんなに気遣ってくれるのかい?
ようやく俺に惚れてる事を自覚したって訳だね?」
「何を馬鹿な事を言ってるんですかっ!」
その言葉をムキになって否定したのは総司だった。
「セイは優しいから知り人が難に合わないようにって心配してるだけですよっ!」
唇を尖らせるその様子にセイが小さく溜息を吐いた。
子供じみた焼餅が浮之助の格好の玩具だと、いつになったら理解するのか。
土方といい総司といい、仕事以外での感情の制御はほとほと苦手らしい。
呆れ混じりにそんな事を考えていたセイの手元をじっと見ていた浮之助が
ふいに指を差した。
「以前から気になってたんだけどさ。それって鍋島じゃないの?」
セイの手の中にある茶碗は白水色の地肌に真白い雪輪模様が散らされた
大ぶりの湯呑茶碗だった。
中に入っていた粥は、すでにほとんどが祐太の口の中に消えている。
「ええ、鍋島焼ですよ。綺麗でしょう?」
少し得意げな総司の言葉に浮之助が首を傾げた。
「最近は贋作も出回ってるらしいが、これは本物だな。
肥後からでも貰ったのかい?」
さすがに一橋家の殿様ともなれば本物を見極める目は持っているらしい。
同時にそれが高価な品だという事も承知しているからこそ、会津藩主であり
新選組の親とも言える松平容保からの下賜の品かと考えたのだろう。
「違いますよっ! これはまだセイが隊士だった頃に私が贈った物なんです!
二ヶ月も甘味を我慢して我慢して我慢して、ようやく手に入れたんですから!」
「アンタが?」
およそ女子を喜ばせる事などに思いが到る男では無かったはず、と
あからさまに疑いの視線を向ける浮之助だった。
「そうですよっ! 隊士として暮らしていたこの人は女子の持つような物など
贈ったところで怒るだけだったし。もう一生懸命考えて、やっとの思いで
選んだ物なんです!」
その頃の事を思い出したのか総司の頬が興奮で染まり出した。
「まだあの頃の私は自分の気持ちに気づいてなくて、夫婦茶碗だって知った時には、
いずれ誰かの元に嫁ぐだろう神谷さんの嫁入り道具になれば良いなんて
切ない思いでいたんですよね。それをこの人が『師弟茶碗として使いましょう』
って優しく言ってくれて・・・。そのうちあれこれあって所帯を持って、
ようやく本来の役目である夫婦茶碗に戻ったこれを見た時には、
私達の絆の強さを改めて実感したものです」
その時の事を思い返しているのだろう男が、うっとりと語る。
「それまでは非番の日に里乃さんの家でしか使う事が出来なかったこの茶碗に、
初めてこの家でセイが茶を淹れてくれた時、本当に幸せを感じたんですよねぇ・・・。
なのに・・・」
『幸せ』という感情を垂れ流すかのように続けられていた言葉が途切れ、
ふいに総司が遠い目をした。
「私の想いの結晶ともいえる品で、ふたりの絆の証だったはずなのに・・・。
気がついたら祐太の離乳食用の椀ですよ。師弟茶碗が夫婦茶碗になって、
今では母子茶碗です。恋心なんて儚いものですよね・・・・・・」
言葉に滲む悲哀の色にさすがに哀れみを感じて、浮之助が視線を泳がせた。
先程まで殴り倒したい程の幸福感に浸りきってた男なだけに、眼に涙を
滲ませている今の姿が痛々しいとさえ感じられてしまう。
「だ、だったらさ。確かうちの蔵にも鍋島から貰った同じ物が眠ってたはずだから
持ってきてやろうか? 俺は鍋島焼は色絵の方が好きだから、これと同じ青磁は
使わないからさ。それを祐太に使わせて、夫婦茶碗は以前同様アンタ達が使う
って事にしたらどうだい?」
ムキになる総司は相手をしていて面白いが、落ち込んだこの男は非常に疎ましい事を
知っているからこその言だったが、そこに静かな言葉が挟まれた。
「それでは駄目なんですよ」
視線を向けた先では空になった雪輪茶碗を盆に置いたセイが、
祐太の髪を優しく撫でている。
「浮之助さんの気持ちは有り難い事ですけれど、この子には総司様がくださった
これを使わせたいんです。この子の命を育む食物は、総司様の想いの篭った
この茶碗から一口一口この子の体に納まるんです。そしてそれが糧となり
いつの日か優しく強い父のような武士となる。そう願っているのですから・・・」
他の誰かに頂いたものでは意味が無いんですよ、と仄かに微笑んだセイの頬は
淡い桜色に染まっていた。
「セイっ!」
華奢な体にがばりと抱きついた男が、その身をぎゅうぎゅうと締め上げる。
「い、痛いっ! 痛いです、総司様っ! 突然何をっ!」
セイが慌てて大きな体を引き剥がそうとするが、しがみついてくる体は離れない。
「いっつもいっつも祐太の事ばっかりで、もう私の事なんてどうでもいいのかって
寂しかったんですよぅ! 貴女がそんな風に思ってくれてたなんてっ!」
今にも押し倒さんばかりのその感情の迸りに、あっけに取られていた
浮之助だったが、苦笑を浮かべると祐太を抱き上げた。
「しょうがないねぇ。なあ、ちび。浮さんと一緒にしばらく散歩でもしような。
お父っつぁんとおっ母さんは、これから懇ろになるらしいからよ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 祐太をどこに連れてくんですかっ!」
「セイvvv」
総司の腕の中でセイが必死に祐太へと手を伸ばすが、
浮之助はニヤリと笑って背を向けた。
「おい、沖田。夕刻には戻ってくるから、それまでには済ませときなよ」
「すっ、済ませとくって・・・何をですかっ!」
「ふふっ、セイv」
「夫婦の睦言に決まってるじゃないの。なぁ?」
セイの悲鳴にからかい混じりの返答を返し、抱えた祐太に微笑みかける。
――― だぁ
食事も済んで機嫌の良い祐太が笑み返す。
「そうか。おめぇも兄弟が欲しいよな」
「離せっ、馬鹿ヒラメッ! ゆ、祐太っ! 人攫いぃぃぃっ!」
背中にかかった声など知らぬとばかりに高い笑いが遠ざかっていった。
沖田家は、今日も今日とて平和なのだ。
ネタ提供 : 紫苑様 ありがとうございました(礼)